昭和46年2月14日 特別奉修委員
信心は有り難うならせて頂く、まあ稽古なのですけれど、有り難くない事を、有り難いという答えを出して行こうという、ね、修行と言うか、精進と言うか。それは日頃、やっぱり教えを頂いとかんとその、ならこれを、「こういう苦しい事をどうして有り難く受けねばらんか」という答えしか出てこない、計算方法が分らないわけですね。ですから、そういう意味において、「信心は有り難うならせて頂く稽古」ということが言えれるわけ。
ではなくて、例えば教えを本気でその、芯を行ずるということね。そこからあの、これはあの期せずして有り難うなること。ね。皆さんここの体験をしっかり積んでいかにゃいけん。ね。
最近はね、例えばマイホーム的な、どんなに素晴らしいお話でもね、最近の合楽でマイホーム的なおかげであった人は、魅力を感じないね、私自身。うん。そら素晴らしいその、話であってもね。ですから、そのおかげがやはりあの、大きなところへ繋がっておったとかね、それが言うなら、金光様の、自分の家の前をはばかして頂くということでもですね、それが、世界の一部が清まっているんだ、綺麗なっているんだ、ということを、に繋がっておらなければ、最近の合楽では魅力はないと私は思うですね。
だからあの、例えば今、波多野さんのお届けをさせて頂きよったら、その事を本気で思わせて頂いたね。もう些細な事でも、「はあ、これが世界の平和に繋がることだ」とか。「これが神様の喜びに繋がることだ」というふうにあの、思わせて頂きますと、楽しゅうなってね、何とほのぼのとした有り難さが湧いてくる、という意味の事を、今ここでお届けをされた。
だからね、「もう、とても先生の仰る世界中の事なんて」と言わずにですね、やっぱ世界中、それを、んな私は、波多野さんの信心が、そういういっぺんに大きくなられたとは思われませんよ。けれども最近、もう口を私が極めて言うておることがその事なのですから。
例えば、んなら、その表の庭ひとつはばかせて頂くでも、これがあの、世界の庭と言うかね、世界の一部が清められておるんだ、という思いで実意を込めてはばかせて頂きよると、ほのぼのと有り難うなってくる。これはもう期せずしてね、あの、与えて頂く有り難さなのですよ。
どういう難儀な問題、どういう事であっても、有り難いという答えが出なければね、答えが出なければならないことになってるです。実際は。ね。一切有り難い事なんで。もう全てが神愛なのだから。ね。
けれども、その例えば答えを出していくということはやはり、計算法をね、5と5を足せば10になるという計算を知らなければ、答えは出てまいりません。ですから、やはり教えを頂いて、そしてあの、それを、どんな場合でも有り難いという答えを出していくという、昨日の竹内先生のお話の通りでありますよね。
けれども、これは期せずして頂くもの。それは、今の波多野さんの例をとりましたがね。「先生がこの頃、ああ言われるからそうさして頂いたら、ほんにやっぱり、何とはなしにほのぼのと有り難い、しかも楽しいものがね、そこにある」と言うておれる。私はそのようにしてね、あの行には入って行くもんだと思うですね。
自分で実感がなくても、ああ言われるからそうさして頂きよったら、始めの間は、三代金光様の言葉から言うと、泣く泣く辛抱いしよったけれども、だんだん有り難うなってきたと仰るようにね、そこのところの、(?)いわゆる期せずして与えられるところの有り難さ。期せずして頂けれる我情我欲をはなしていく、といったようなことにまで大きくなってくるんですからね。どうぞ。
明渡 孝